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帝塚山の竹鶴邸と芝川邸

以前の記事で、ニッカウヰスキー㈱創業者の竹鶴政孝氏の大阪住吉帝塚山の居住地について、あくまでも推測という形でご紹介いたしました。それは「帝塚山タワープラザ」(大阪市住吉区帝塚山中1丁目3-2)の南に竹鶴邸、その西隣に芝川邸があった、というものでしたが、後にこの推測が正しかったことがわかりました。

これは、2014年に放映されたNHKの連続テレビ小説「マッサン」放映を機に「すみよし歴史案内人の会」が中心となって調査をされた結果、明らかになったものです。

詳細は、「すみよし歴史案内人の会」のますの隆平氏が「大阪春秋 第161号」でご紹介しておられますので、そちらをご覧いただけたらと思いますが、当社所蔵の「給水装置申込書」の資料が、竹鶴邸の地番と、竹鶴夫妻がこの家に住み始めたと思われる時期を知るきっかけとなりました。


▲「給水装置申込書」
(千島土地株式会社所蔵資料G00991_301)
竹鶴政孝氏のお名前の漢字が違うのが少し気になりますが、こちらは記録ミスである可能性が高いと思われます。


▲帝塚山の芝川邸と竹鶴邸

大正5-6年頃
芝川又四郎が帝塚山に転居

大正9年11月
竹鶴政孝・リタ夫人がスコットランドから帰国
摂津酒造の阿部喜兵衛社長が用意した家(旧竹鶴邸Ⅰ)に住む

大正11年春
竹鶴政孝氏、摂津酒造を退社

大正12年春
竹鶴政孝氏、寿屋(現・サントリーホールディングス㈱)に勤務

大正12年12月頃
竹鶴夫妻が又四郎の借家(旧竹鶴邸Ⅱ)に転居

大正14年1月
竹鶴夫妻、山崎に転居

大正15年1月
芝川又四郎、神戸住吉に転居

又四郎の述懐には、芝川邸の近所に住んでいた竹鶴夫妻が、帝塚山学院初代学長の庄野貞一先生の紹介で芝川邸を訪れ、又四郎の所有地の上に家を建てて貸してほしいと依頼された、とあります。また、摂津酒造退社後、竹鶴氏が桃山学院で化学の教師をしていた折には、「試験の採点を手伝ったことがある」とも述べていることから、大正11年-12年頃に、竹鶴夫妻から依頼を受けた又四郎が、又四郎の父・又右衛門が建築家・武田五一を通してあめりか屋に建てさせた洋館を西宮甲東園から移築し、大正12年12月頃から、竹鶴夫妻が又四郎の借家に暮らし始めた…ということだったのではないかと推測しています。


▲帝塚山芝川邸
(千島土地株式会社所蔵資料P04_032)


▲芝川百合子(又四郎長女)、帝塚山芝川邸建物前にて
(千島土地株式会社所蔵資料P18_039)

帝塚山芝川邸の一部が写っている貴重な写真です。芝川邸の建物は、吉野の製材所で購入した杉の柱を使い、天然スレート葺きの屋根は、又四郎の注文により「将棋のこまみたい」な形であったと
いいます。

竹鶴邸、芝川邸は、建築図面も写真もほとんど残っていませんが、竹鶴家、芝川家の転居後も取り壊されることなく、新しい住人を得て使い続けられました。こちらは、昭和37年に全線が開通した「南港通(柴谷平野線)」の敷設計画図ですが、こちらの資料から、在りし日の芝川邸と竹鶴邸の様子を知ることができます。


▲「都市計画路線 平野柴谷線 平面図」
(千島土地株式会社所蔵資料Y02_001_005)

「南港通」の開通により、かつての芝川邸の敷地の一部は道路となり、芝川邸、竹鶴邸も今はともにもうありません。しかし、こうしてその場所が特定され、敷地内の様子が明らかになったことによって、竹鶴夫妻と芝川家の交流をより鮮やかに思い起こすことができるような気がしています。

■参考資料
『小さな歩み』、芝川又四郎、1969
『ニッカウヰスキー80年史 1934-2014』、80年史編纂委員会、2015
「大阪春秋 大161号」、新風書房、2016

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